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季節の行事

お正月

「お正月」は年間の歳事の中で最も重要な儀式です。元旦は1年のはじまりとして正月(1月)の満月の夜に「年神さま」を迎えて行う儀式でした。
満月であるということは旧暦の1月15日がその重要な日でした。後に年の始めの日を元旦と定めました。
元は「はじめ」、旦は「日の出」の意味で、1年の始めの日の朝が「元旦」ということです。
15日は「小正月」として一連の正月行事に残されましたが現在ではあまり行われないようです。
元旦に迎える「年神さま」は五穀を司る作物神であり、祖先神でした。また、陰陽道では「歳徳神」を年神としました。
新年に年神さまという新しい霊魂をむかえるときに「おめでとうございます」という祝福の言葉を捧げます。
新年の挨拶は、実は人に対してするものでなく、年神さまという霊魂に対して発する祈りの言葉であったわけです。
「新年おめでとうございます。」と言葉を交わすことで新しい年の豊穣と平和を年神さまに祈っているのです。
古代の盆が生霊を祭ったのに対して、正月は祖先神として年神さまを迎えて祭るところに違いがありました。
門松や注連縄(しめなわ)は年神さま祭る場所を示すものです。そして、年神さまのお供えとして丸い重ね餅(鏡餅)を供えます。
「お年玉」は元来は正月に小さい丸餅をお下がりとして与える事からはじまりました。年玉とは「年霊」という丸い形の霊魂を意味しています。


立春・節分

もともと「節分」は季節のはじめである「立春、立夏、立秋、立冬」の前日をすべて「節分」と呼んでいたのですが、一年の季節の始まりの「立春」の前日を特に指すようになっています。中国から日本に伝わったのは飛鳥時代のことといわれます。
旧暦では一月朔日(ついたち)は立春の前後に訪れます。立春は1年の始まりのひとつで、立春正月思想といい、この日を以て新しい年の始まりとする考えもありました。したがって暦の上では十二月であっても立春を過ぎれば春即ち新年であるという感覚もあったということです。立春を過ぎて正月が来ないのは中途半端な状態で落ち着かないといった意味の歌が「万葉集」や「古今和歌集」にあります。若き日の松尾芭蕉も「春や来し 年や行きけん 小晦日」と正月を待たずに訪れた立春を詠んでいます。
太陽暦の採用から正月が立春の約一ヶ月前に引き離されてしまった為に新年の儀式としての立春・節分の意味合いは薄れてしまいました。現在では春の訪れの目安となっているようです。
立春正月思想から節分を一年のしめくくりとして「豆まき」の儀式を行います。
「豆まき」は室町時代に京の都に鞍馬山の鬼が出没して悪事を働き人々が困っていたとき毘沙門天のお告げでいり豆を投げつけて追い払ったという風習が儀式化したものです。節分の豆を「鬼打ち豆」、豆まきを「豆打ち」とも呼びます。
豆まきの豆は「福豆」といい、節分の夜、年よりひとつ多く食べます。翌日の立春が新年と考えて、来年の分も食べるわけです。


ひなまつり

3月3日はひなまつりです。ひな祭りが盛んになったのは江戸時代の中頃からであるといわれます。
当初は春の農作業をはじめるにあたっての儀式で、身体のけがれを人形に移して川に流すという習俗でした。
現在も一部地方ではこの「流しびな」の風俗が残っています。
豪華なひな飾りが現れたのは江戸時代中期で一般に女児の節句として盛んに行われるようになったのもその頃です。
ひな飾りではお内裏様が向かって左、おひな様が向かって右に飾られます。
しかし、元来は逆で向かって右にお内裏様、向かって左におひな様が飾られていました。
日本古来、左(向かって右)が上位として尊ばれていた為です。
この並び順が逆転してしまったのは大正天皇・皇后が儀式の折りに洋装でお立ちになった時、西洋礼式にならって天皇が向かって左、皇后が向かって右に立たれた為であるといわれます。
西洋では向かって左が男子、向かって右が女子と決められています。
ひな壇に桃の花、白酒、草餅や菱餅を飾り、祝います。


お彼岸

お彼岸には「春彼岸」と「秋彼岸」があり、それぞれ春分の日と秋分の日を中心に前後三日間、計七日間のことを指します。初日を「彼岸の入り」、中の日を「彼岸の中日」、最終日を「彼岸明け」と呼びます。「お中日」と呼ばれる春分、秋分の日はともに昼夜の長さが同じ日で、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。このことから、西方に「阿弥陀如来」の「極楽浄土」があるとする仏教信仰と結びついたと謂われています。西方にある「極楽浄土」を正しく示し、「彼岸」に到る事ができるように仏事を行ったのが始まりです。寺院で行われる彼岸会の法要はあの聖徳太子の発案によるものだといわれています。
彼岸が現在のような春分・秋分を中日とした7日間を指すようになったのは江戸時代後期からで、明治時代になって暦が代わった後も受け継がれています。
明治初期に春分の日が「春季皇霊祭」、秋分の日が「秋季皇霊祭」という国家の祭日になりました。
第二次大戦後に国民の祝日となり、春分の日は「生物をたたえ、自然をいつくしむ日」、秋分の日は「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」とされています。


端午の節句

5月5日の「端午の節句」の「端午」は「月の端(はじ)めの午の日」の意味で当初は5月5日を指すものではなかったが、「端午」の「午(ご)」と数字の「5(ご)」をかけて、5月5日に「五節供」のひとつとして催されるようになった。季節柄、「菖蒲の節句」といわれ、「菖蒲(しょうぶ)」を「尚武(しょうぶ)」=「武勇を尊ぶこと」にかけて、江戸中期頃からは男子の節句と考えられるようになった。
【ちまき】は茅萱(ちがや)の葉で餅や飯を包み巻いたことから「茅巻」と呼ばれるが、端午の節句に使われるのは、中国の故事が伝えられたものである。
【柏餅】は江戸時代中期に江戸を中心に端午の節句の菓子として定着した。元来、柏の葉は古代人の食器だったが、柏の葉が新芽が出るまで葉が落ちないことから、「家系が絶えない」として喜ばれ、広まったと言われる。西南日本では「サンキラ」(さるとりいばらの葉)で包む地域もある。


和菓子の日(6月16日)

西暦848年(承和15年・嘉祥元年)の夏、仁明天皇が御神託に基づいて、6月16日に16の数にちなんだ菓子、餅などを神前に供えて、疫病を除け健康招福を祈誓し、「嘉祥」と改元したという古例にちなみます。
「嘉祥」とは文字通り「めでたいしるし」であり、鎌倉時代には、のちの後嵯峨天皇が東宮となられる前に、6月16日に通貨16枚で御供えの菓子などを求めて献じそれを吉例とし、皇位継承の後もこのことが続けられました。
その後、室町時代の『嘉祥の日』には、朝廷で主上に「かづう」(女房言葉・かつう、かずうともいう=「嘉祥の祝」の菓子のこと)を差し上げるのが吉例であったことが『御湯殿上日記』に記載されています。
また、慶長の頃、豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を恒例として行っていたことが『武徳編年集成・四十四』に記載されています。江戸幕府においては、この日、大名、旗本など御目見得以上の諸士に大広間で菓子を賜り、これを「嘉祥頂戴」といい、菓子は白木の片木の上に青杉の葉を敷いてその上に積んであり、一人一個ずつ取らせたといわれます。
民間においても、「嘉祥喰」といって十六文で菓子や餅十六個を求め食べるしきたりがあり、本来は嘉定通宝で買うことが当然とされましたが、この銭はさほど世間に多くなかったことから、米一升六合をもって菓子や餅を買い求めることも行われていました。
また、この夜に十六歳の袖止め(振り袖をやめて詰め袖にする)をする「嘉祥縫」という風習があったほか、6月16日に採った梅の実でつくった梅干しを旅立ちの日に食べると災難をのがれるという言い伝えがあり、「嘉祥の梅」といいました。
このように、「嘉祥の祝」は、疫を逃れ、健康招福を願うめでたい行事として歴史の中で受け継がれ、明治時代まで盛んに行われていました。この『嘉祥の日』を現代に復活させたのが「和菓子の日」です。

七 夕

七月七日は「七夕(たなばた)」です。
「たなばた」は機(はた)を織る乙女「棚機女(たなばたつめ)」のことで、この日の夕べに神を迎える祭事を行う乙女のことです。
元来、旧暦七月十五日の盆行事に連なる禊ぎ(みそぎ)の行事でした。
また、土俗信仰として、畑作の収穫祭を七夕の日に行いました。
これは稲作以前の日本固有の信仰で、麦、雑穀、豆類や胡瓜、茄子などの実りを神に感謝するものでした。
盆飾りの胡瓜の馬や茄子の牛は、この祭りに神に供えられたものが盆迎えの祓えの行事と融合して受け継がれたものです。
現在の七夕は日本古来の収穫祭と盆迎えの信仰、更に中国の星の伝説や「きこうでん」という芸事や詩歌文字の上達を願う行事が混ざり合ってできたものです。
江戸時代になると笹竹に願い事を書いた短冊を下げる現在の七夕祭りが始まりました。
当時の旧暦七月七日は真夏の行事で夜空も澄んでいて、星が見やすい季節だったようです。


中 元

御中元を贈る時期は七月前半で十五日までとされます。
これは道教の「三元節」の中の「中元節」(七月十五日)に由来するといわれます。
中元節には人間の罪が許されるとされ、日本に入って仏教のお盆(盂蘭盆会、同じく七月十五日)と一緒になって祭られていました。
御中元の贈答の風習は日本独自のもので、お盆の供物のお下がりを食べる「共食」の習慣を基にしています。
夏のボーナスを「素麺料」といったのはこの「共食」の名残といいます。
現在では、お盆が一月遅れの八月十五日に行われ、中元の風習は贈答にだけ残っています。


土用の入り

土用の入りの日に餅を食べると夏病みしないと言い伝えられます。
ただしこれは夏の土用に限ります。毎年七月二十日あたりが(夏の)土用の入りの日になります。
有名な土用丑の鰻は平賀源内という江戸中期の文化人が作った鰻屋さんの広告キャッチフレーズだといいます。
土用の入りに餅を食うのならば、土用の丑の日にも何か食べてみようという異端児といわれた彼一流のインスピレーションでしょう。
【土用】 古代中国の「五行説」における五元素「木・火・土・金・水」に四季の「春夏秋冬」を当てはめます。
春は木、夏は火、秋は金、冬は水としました。
元素がひとつ多い為「土」を残して、各季節に割り振られた九十日のうちの五分の一(十八日間)を土用として各季節の最後に置きました。
土用は一年に四回あるわけで、こうして四季を五行に公平に配分しました。

お 盆

旧暦7月15日は「お盆」です。
現在では東京を中心とした新暦7月15日に行う地方と、一般的には一ヶ月遅れの8月15日に行う地方が多いようです。
旧暦から新暦に移行した際、唯一新しい日付に馴染まなかったのがこの「お盆」で、季節を合わせるため苦肉の策として一ヶ月遅れの8月15日になったようです。
お盆は1年の後半の始まりであり、親族あるいは親しい人を訪問して贈り物をする「盆礼」という風習が古来からあったとされます。
落語の人情噺にある「藪入り」という風習(商家の使用人に与える正月と盆の休暇)も盆礼の慣習から発生したものです。
その他に「盂蘭盆」という亡くなった祖先の霊を迎えて慰める仏教行事があります。
お盆はこの「盆礼」と、仏教の「盂蘭盆会」(同じく7月15日)、さらに道教の三元思想の「中元」(同じく7月15日)が融合してできたものです。
お盆の帰省、先祖の霊を祭る精霊祭、盆踊り等々、夏の風物誌として日本の歳事の代表的存在です。
*精霊祭は7月15日を中心に先祖の霊を迎え、送ります。13日に先祖の霊を迎え、16日に送ります。毎日の供え物には変化を付けて供養するとされます。
一例として「13日 お迎え団子、14日 おはぎ、15日 素麺、16日 送り団子」など。 (注)ただし、名古屋地方では13日に迎えて、15日に送る場合が多いということです。


敬老の日

9月の第3月曜日は「敬老の日」です。この日は昭和41年に制定された祝日です。
「多年にわたって社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」とされます。新しい行事ですが、広く行われて定着しています。
現在日本は平均寿命約80歳、世界でもトップクラスの長寿国です。しかし、これほどの長寿はごく最近の事、「人生わずか五十年」と織田信長で有名な「敦盛」に謡われるように、四十歳で初老、五十歳で寿命を終えてしまう時代が続いていました。
「人生わずか五十年、下天のうちにくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけ滅せぬもののあるべきか」
論語では四十不惑、五十知命、六十耳順、七十従心。
近年の研究では人間は百二十歳くらい迄は生きられるそうです。皆様の長寿と健康をお祈りします。

仲秋の名月

旧暦8月15日は「仲秋の名月」です。
この日は「十五夜」と総称し、萩やススキを飾り、月見団子を供えて秋の名月を観賞します。
「仲秋の名月」は別名「芋名月」といい、秋に収穫される里芋をお供えしたということです。お月見団子は秋に収穫されるその里芋の形を模しているといわれます。
旧暦では7,8,9月を秋であるとしてそれぞれ初秋、仲秋、晩秋と呼び、8月の満月を「仲秋の名月」と呼びます。
旧暦九月十三日は「十三夜」と称し、同様にお月見をします。この月は「豆名月」と呼ばれ、豆をお供えしたということです。